第37回       パリの思い出

 先日、新聞を読んでいたら、辻仁成と中山美穂が離婚したという小さな記事が載っていた。特にこの作家と女優のカップルのファンというわけではないのだが、へえ、そうなんだと思った。というのは、幸せそうに見えたふたりを、一度見かけたことがあるから。

 2004年5月のこと。フレンチ・オープンの取材でパリを訪れていた僕は、その日、たまたま時間が空いたので、街を散歩することにした。パリを訪れたのは2回目だったが、大会期間中は毎日、ホテルと試合会場の往復ばかりで、観光らしいことをしたことはなかった。まあ、仕事で行っているので当たり前なのだけど。

 パリの街は素敵ですね。ただ歩いているだけで楽しい。路地裏の石畳の細い道、停まっている汚らしい車、道ゆく人々のファッション、掃除のオジサン、信号とか郵便ポスト、それら何でもないものがすべてお洒落に見える。特にマレ地区がよかった。ピカソ美術館の周辺には、小さなギャラリーやカフェが点在していて、店構えがどこもシックでセンスがよく、カッコよかった。辻仁成と中山美穂のふたりを見かけたのは、そんなマレ地区の、あるインテリアショップだった。

 店の中をうろうろしていたとき、目の前に見たことがある女性がいた。選手の知り合いか、どこかのテレビ局のスタッフか、新聞記者か、いずれにしてもフレンチ・オープンを目的に日本から来たテニス関係者だろうと思ったので、僕は「こんにちは」と挨拶した。えっと、誰だったっけな、でも知っている顔だよなと思いつつ「今日はお休みですか?」と声を掛けた。「はい」とその女性は笑顔で応えてくれたが、なんだか素っ気ない。そのうち男、つまり辻仁成が乳母車を押しながら彼女のところにやってきた。そのとき初めて、あ、中山美穂だと気付いたのだった。そういえば、ふたりはパリに住んでいるって雑誌か何かで読んだことがあったっけ。

 爽やかな初夏のパリ、そして素敵なマレ地区の小さなインテリアショップという、非日常的な場所でのことだったからか、そのときの光景は鮮明に覚えている。僕の中のパリの思い出のワンシーン。

 離婚を伝える新聞の記事には、「これからは息子といっしょに生きていこうと思います」との辻仁成のコメントがあった。あのときの赤ちゃんは、もう少年になっているのだろう。もう10年も前のことか。あのときコートにはサフィンとかエナンがいた。ナダルが登場する前だ。すべては過去のものとなり、そこにとどまっている者はひとりもいない。10年という時間は、つまりそれだけの時間なのだ。テニスはどんどん進化して、ニューフェイスがどんどん登場するし、幸せそうに見えたカップルが、何があったのか離婚してしまう。そういうふうに、物事ががらっと変わることが可能な時間というわけだ。

 この間終了したウインブルドンの男子決勝、ジョコビッチの関係者席にボリス・ベッカーがコーチとして座っていた。えっ、これがあのベッカー? どこからどう見ても、ドイツの街の酒場でビールをガバガバ飲んでそうなオッサンになっていた。解説の福井烈さん、ツッコんでくれないかなと思って観ていたが、もちろんそんなことはしなかった。まあ、気付かないうちに、それだけ月日が経ったということですね。

                         (2014/07/13)


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