第35回       テニスと恋愛

 先日、テニスガーデンの仲間と飲んでいるときに、「テニスと恋愛は似ている」
という話で盛り上がった。

 例えば、こんな感じだ。

 試合ではショットにメリハリをつけたほうがいい(恋愛では押したり引いたりとメリハリをつけたほうがいい。押すばかりではダメ)。たとえパッシングショットを決められても、勇気を持って何度でも前に出なくてはいけない(たとえふられたとしても、何度でもチャレンジしなくてはいけない)。テニスも恋愛も相手とのかけひきが大事、などなど。単純に「テニスは」を「恋愛は」に言い換えるだけで、たいていのことは「それ、言えてる!」となるから不思議。

 似たような話で思い出したのだけど、『テニスボーイの憂鬱』(村上龍著)という小説の主人公の男性は、自分の日常の問題をいちいちテニスに置き換えて考え、行動する。例えば、目当ての彼女を食事に誘い出すことに成功する。そのとき彼は心の中で「僕は今、アプローチショットを打った。ネットで自分は一発で仕留める殺し屋にならなくてはいけないのだ」というジョン・マッケンローの言葉を思い出し、そして気合いを入れるのだ。

 テニスに関するいろいろなことは、恋愛だけではなく、人生にも通ずるとぼくは思っているのだけど、どうでしょうか。

 日々生活をしていていつも感じているのは、人生も、またテニスの試合も、1ポイント1ポイントの積み重ねなのだということ。小さなことを積み重ねた上に今がある(イチローも似たようなことを言ってましたね)。一発逆転満塁ホームランというのがテニスにはない。人生も、そうであってほしいと思う。それに、最後の1ポイントまでテニスの試合はわからない。ゲームカウント0-5の0-40で負けていたとしても、逆転できる可能性はあるのだ。そこがぼくがテニスを好きな理由のひとつ。

 まあ、ほかのスポーツをやっている人も、きっと同じように思っているのだろうけど。ラガーマンはきっと「人生とラグビーは似ている」と言うだろうし。サーファーは「人生はサーフィンだ」と感じていると思う。
『走ることについて語るときに僕が語ること』というエッセイの中で、ランナーでもある村上春樹は、「小説を書くことは、フル・マラソンを走るのに似ている」と書いている。相手に勝ったり負けたりというのは問題ではなく、自分自身が設定した基準に達しているかいないかが重要だという点が似ていると。なるほどなと思う。「長距離走において勝つべき相手がいるとすれば、それは過去の自分自身なのだから」という部分では、今の自分にとってのテニスってまさにそんな感じだと思った。

 ご存知のように、ダブルスはパートナーとの分業で、役割分担がしっかりしていると強い。あとバランスも大事だ。一方が思いきったギャンブルができるプレーヤーだとしたら、もう一方は地味でも安定感のあるプレーヤーのほうがいい。ふたりとも思いきりがいいだけのペアだと、ひとつのミスで簡単に崩れたりする。あと、それぞれの技術のレベルが同じくらいの方がいい。どちらか一方がめちゃめちゃ強くても、ペアのレベルが劣ると、わりと弱い。これは、恋愛におけるパートナーの関係にも言えると思いませんか?

 あと、自分の経験だと、試合中、負けてくるとすぐに諦めてしまうヤツは、恋愛でも諦めが早い。逆に、どんなボールでもとりあえず返してくるシコい(しつこい)ヤツは、恋愛でもしぶとい。ジャンル分けすると、ぼくはこの部類に入るんじゃないかと思っている。皆さんはどうですか?

 この話は奥が深くてキリがないので、またいつか。

                         (2013/12/04)


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