第32回       体罰について思うこと

 スポーツ界における体罰が問題になっている。中学校や高校の運動部だけではなく、柔道界では、女子日本代表監督らが大勢の有力女子選手に暴力、パワーハラスメントをしていたことが、選手たちの勇気ある行動により発覚。全柔連の対応は案の定、後手にまわり、ここに一般の社会的感覚と「体育会気質」組織の感覚の大きなズレがあることを世間に見せつけた。

 もしかしたら、告発された前監督をはじめ全柔連のお偉方は、報道されたような体罰に対して、形としては頭を下げているが、世間が問題視するほど重大な問題ではないと心の奥底では考えているかもしれない。

 「選手時代に体罰を経験したのか?」「そうは感じなかった」「たたかれたのか?」「たたかれた」。報道陣と前監督のやりとりをニュースで見ていて、やはりというか、体罰を体罰と認識していない土壌があるのだなと思った。長い上下関係の時間の中で感覚が麻痺し、自分がされたことが体罰だと気づかないのだ。自分も中・高・大とどっぷりと体育会人間なので、そこらへんの感覚はなんとなくわかる。監督や先輩にたたかれた経験はないが。言葉の暴力はあったかもしれないが、それほど深い心の傷とはなっていない。

 考えてみると、自分の中学校・高校時代には、先生から殴られるなんていう体罰は当たり前にあったように記憶している。中学生のとき、オブーというあだ名の先生の「けつバット」はみんなから恐れられていた。掃除中に騒いでいた、授業に遅刻した、というような理由で、オブーはすぐに「おい、誰かバット持ってこい!」と言って、クラスのみんなの前で見せしめのように生徒の尻をバットでフルスイングして殴るのである。木製バットか金属バットか生徒に選ばせて! 自分も2回ほどやられた。尻は腫れ上がり、次の授業ではまともに座れないほどだった。それでも誰も親に報告しなかったと思う。そして、不思議と、今でもオブーに対して憎しみの気持ちはない。今の時代なら大問題になるのだろうけど。

 ソフトテニス・マガジン編集部の新米記者だったときのこと。日本でもトップクラスの女子の実業団チームの監督が、観客席からは見えないコート裏で、負けた選手の頬を思いきり平手打ちした場面を目撃したことがあった。いっしょにいた先輩に聞くと、いつものことだと言う。普段の監督は穏やかでいつもニコニコと微笑んでいるような人だっただけに衝撃だった。そのチームは全日本のメンバーに何人も輩出するような実力のあるチームで、選手たちも監督のことをすごく慕っているように見えたし、そのときは、強くなるためにはこういうメリハリのある指導も必要なのかなくらいにしか思わず、特に問題にしなかった。そんなものだと。今思うと、自分も感覚が麻痺していたのかもしれない。

 柔道界のこの一連の事件はスポーツ界全体の氷山の一角であることは間違いないだろう。

 正直に言って、自分にはよくわからない。体罰がいいことか悪いことかと問われたら、悪いことであるのは間違いないが、時と場合と程度によっては、それほど目くじら立てるほどではないのではないか、と思ってしまう自分も確かにいる。しつけなどもそうだが、痛みを伴うことによって心から理解するということがあると思う。だからといって体罰容認派というわけではないのだけど。

 暴力でいけないのは、そこにコミュニケーション、つまり「対話」がないことだと思う。一方的な行為で終わってしまっているのがいけないのではないか。いつの時代も世界のどこかで起こっている戦争もそうだ。「対話」や「議論」といったインテリジェンスな行為が欠けているということが、一番いけないのだと思うのだが、どうだろうか。

                         (2013/2/7)


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